(有)ヤマサン商店
私どもは、自然食品をこよなく愛す、ヤマサン商店です。
TEL:042-645-6318
FAX: -
私どもは、自然食品をこよなく愛す、ヤマサン商店です。
日本料理・割烹・和食の食材を中心に取り扱っております。
オープン当時は、昆布・煮干し・椎茸・本節・花かつを・生わかめ等を中心に、日本国内で採れた天然の食材を販売しておりました。
現在では、日本料理・割烹・和食の食材を幅広く取り扱うようになりました。
今ではオープン当時から販売している昆布は十数種類、生わかめは五種類、椎茸は十数種類など取扱品目も多くなっております。
現在では、京都より生麩類、割烹料理用の各種みそ類、など幅広く食品を取り扱っております。
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麦茶の歴史(6月1日は麦茶の日) - 2018-06-21
江戸時代末期では、麦茶は、町人衆の気楽な飲み物、お茶がわりとして商品化され、今でいう喫茶店のような「麦湯店」なるものが出て、大いに繁盛していたようです。
人びとは、縁台に座って麦茶を楽しみ、世間話に花を咲かせたことでしょう。
明治になってからも、上野・浅草・両国などの下町では、夕方から夜中まで「むぎゆ」と書いた行燈が通りに立ちならび、庶民の憩いの場になっていました。
10gが一パックです。
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平安時代から明治時代
麦湯(麦茶)は、平安時代より室町時代までは、おもに貴族が飲用していました。
その後、戦国時代から武将も飲用し始め、江戸時代には屋台の「麦湯売り」が流行るまでになりました。
天保に書かれた『寛天見聞記』には「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出し、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」とあるように専門店である「麦湯店」も出現しました。
これは麦湯の女と呼ばれる14〜15歳の女子が、一人で食事も何もなく麦湯のみを四文ほどで売るものでありました。
大麦の収穫時期は初夏であり、取れたての新麦を炒めるのが美味であるため、夏の飲料とされ、愛用されていました。
江戸末期から明治時代に入ると、麦湯店が流行ると同時に庶民の家庭でも「炒り麦」を購入し飲用されるようになりました。
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10gパックが50個入っています。
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昭和30年から昭和53年
昭和30年代に冷蔵庫が普及し冷やして飲む習慣が生まれ、麦茶という商品も売られ始め、昭和40年代には日本全国で麦茶の名称が一般的に浸透してきました。
なお、名称は太平洋戦争前には東日本は六条大麦を使用した麦湯、西日本は裸麦使用の麦茶となっていました。
昭和38年に大型コーヒー焙煎機を輸入した会社が、それを利用して麦茶の大量生産を開始し、同年に日本初のティー・バッグ麦茶(煮出し専用タイプ)を発売しました。
1965年(昭和40年)には、水出しタイプとして初のティー・バッグ麦茶が食品メーカーから発売されました。
1978年(昭和53年)には初の容器入りリキッド(液体)タイプ、1リットル紙パックタイプのチルド麦茶が乳業メーカー数社から発売されました。
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10gパックで1リットルの麦茶ができます。
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昭和55年以降
1980年(昭和55年)には、大手食品メーカーが麦茶市場に初参入し、冷水用と煮出し用のティー・バッグ麦茶を同時に発売し、1980年代には缶やペットボトル入りの麦茶が発売されたことによって、規模が小さかった麦茶市場が発展して、市場規模の拡大となりました。
その後、ポーション(濃縮液)タイプの麦茶も発売されました。
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冷水・煮出しの両方が出来ます。
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現代
現代において、麦茶を家庭で作る場合は、粒状の物を用いて煮出すことは少なく、利便性・経済性が向上した煮だし・水出し用のティー・バッグを使用することが殆どであります。
ただし、これらは、粒状のものと比べて「香ばしさ」「うまみ」「香り」が落ちる傾向にあります。
また、麦茶の性質上リットル単位で作ることが前提となっており、また、専用ボトルなどを用意する手間もかかるため、残念ながら近年では手軽に飲める缶・ペットボトル入り飲料タイプのものや、水に溶かして一人分ないし数人分を作れる濃縮液タイプのものが主流となっています。
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